【世説新語】にもどる
[1『世説新語』について] | [2劉義慶について] |
[3劉孝標の注について] | [4書名について] |
1『世説新語』について |
『世説新語』は、後漢から東晋までの名士の逸話を収めた小説集であり、
「志人小説」と言われるものである。その体裁は『論語』先進篇に「徳行は顔淵、
閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語は宰我、子貢。政事は冉有、季路。
文学は子游、子夏。」とある、いわゆる孔門四科に則って
「徳行」「言語」「政事」「文学」の四篇から始まり、
あわせて三十六門に分類して、多様な角度から個性的な人間の言動を描いている。 『世説新語』に収められた話は、全てがオリジナルな話だという訳ではないらしく、 先行する裴啓『語林』や郭澄之『郭子』などと同じ話も見られる。これは『世説新語』に限ったことではなく、他の六朝小説でもしばしば見られることである。 しかし『語林』や『郭子』などが散佚してしまったのに対して、 『世説新語』は今に伝わっていることを考えると、『世説新語』は 志人小説の代表的作品であるということができるだろう。 『世説新語』が編まれた当時すでに大きな反響を呼んだであろうことは、 『世説新語』が編まれてそう離れない時期に劉孝標の注が 作られたことからも推測できる。 さらに後世には、その体裁に習って、『続世説新書』『明世説』『漢世説』 『世説補』『今世説』などの続書も著され、大いに流行した。 |
2劉義慶について |
『世説新語』は、劉宋の劉義慶(403〜444)の撰とされる。
劉義慶は宋の長沙景王劉道憐の子で、武帝劉裕の甥にあたる。
臨川王劉道規に子が無かったので、その跡を継いで臨川王に封ぜられた。
彼は寡欲で文章を好み、遠近の文学の士を招き集めたという。
その著には『世説新語』のほか『宣験記』『幽明録』『集林』などがある。 『宋書』巻五十一「劉義慶伝」には『世説新語』に関する記載は見られないが、 『南史』巻十三「劉義慶伝」には「著はす所の『世説』十巻、 撰するところの『集林』二百巻は並びに世に行はる。」と記されている。 ただし実際には、魯迅が『中国小説史略』で指摘するように、 彼を中心とした配下の文人たちの作ということになるだろう。 |
3劉孝標の注について |
『世説新語』には、梁の劉孝標(462〜521)の注が附されている。
劉孝標は名を峻というが、字の孝標で呼ばれることが多い。
『梁書』巻五十「文学伝・劉峻」によれば、彼は非常に学問を好み、
書を読んで夜を明かすこともしばしばであった。
また彼があまりに書物を好むので、清河の崔慰祖は彼を「書淫」と呼んだという。 劉孝標の注は、『世説新語』本文の記述を補足するのみならず、 本文の誤りを訂正しているものもある。唐の劉知幾はその著『史通』でこのことを高く評価している(巻十七「雑説」中「諸晋史」)。 また劉孝標の注には四百余種の書物が引用されており、 その大部分は佚して伝わらない書である。そのため、裴松之『三国志』注、 李善『文選』注などと並んで、佚文を収集する際にも注目される資料である。 |
4書名について |
『世説新語』の元の書名は、『世説』であったらしい。詳しくは 「『世説新語』のテキスト」に譲るが、先に挙げた『南史』「劉義慶伝」、 『隋書』経籍志、『旧唐書』経籍志、及び『新唐書』芸文志では全て 『世説』とされている。これが唐代には『世説新書』と呼ばれるようになった。 その理由は定かではないが、一説には漢の劉向に 『世説』という著作があり(『漢書』芸文志)、 それと区別するために新書の二字を加えたのであろうといわれる。 いつ、どうして『世説新語』と呼ばれるようになったのかは分からないが、 遅くとも宋代までには『世説新語』と呼ばれるようになったようである。 |
お問い合わせはこちらまで cbn@hiroshima-u.ac.jp |