『文選』とは
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1『文選』について
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2編者昭明太子について
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3李善の注について
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1『文選』について
『文選』とは、東周から梁までの優れた文学作品を集めた詞華集である。編者は梁の武帝の長子、昭明太子蕭統とされる。収録される作品はおよそ八百、作者は百三十一人にのぼる。その選録基準は『文選』序の「事は沈思に出で、義は翰藻に帰す。」という言葉に集約されていると言われる。『文選』はその収録作品を三十七の文体に分類し、さらに、賦なら京都、郊祀など、詩なら補亡、述徳など、主題ごとにいくつかに分類している。
六朝時代の詩文集は、そのほとんどが散逸してしまい、現在そのままの形では伝わっていない。それに対して『文選』は、その原型に近い形で伝承されており、六朝文学を研究する上で欠くことのできない、最重要資料の一つということができる。
また『文選』が後世の文学に及ぼした影響も大きい。隋の南北統一の後、隋の文帝の意向に従って、華美な文を嫌い典雅な文章を尊ぶ風潮が起こった。その際格好の参考書となったのが『文選』であった。唐代に入っても、科挙制度に試賦が課されたことも原因となって、『文選』は詩人達が詩文を作成する上で大いに参考にされていた。盛唐の詩人杜甫は「宗武生日」詩で「熟精文選理、休覓彩衣輕。」(熟精せよ 文選の理、覓むるを休めよ 彩衣の軽きを。)と述べている。宋代には「文選 爛にして、秀才 半ばなり。」という諺も存在したほどである。
このように、六朝梁の昭明太子によって編纂された『文選』は中国文学の規範の一つとされてきたものであり、中国文学を研究する上で重要な地位を占めている。
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2編者昭明太子について
昭明太子蕭統は南斉の末、中興元年(五〇一)九月、襄陽で生まれた。彼が生まれた翌年、父蕭衍は即位して梁の武帝となり、蕭統は二歳で皇太子となった。太子は『梁書』や『南史』の本伝では、非常に模範的な人物として記されている。三歳で『孝経』『論語』を学び、五歳で五経をことごとく暗唱した。書を読めば数行並びに下り、目にしたものはみな覚えていた。太子は学問を愛し、三万巻に及ぶ書物を集めて、才学の士を招いて倦むことがなかった。この学問的基盤によって『文選』は編纂されたのである。
また太子は仁愛に富む性質でもあった。飢饉の折りには民に衣食を給したりもした。母の丁貴嬪が亡くなった時には、悲しみのあまり何も喉を通らなくなり、心配した父武帝から食事をとるように宣旨が下ったという。
ところが中大通三年(五三一)、船遊びの際の事故がもとで病を発し、三十一歳の短い生涯を閉じた。太子が亡くなると、都中の人々が宮門に至って泣き叫んだという。太子の著作として、『梁書』『南史』は文集二十巻、『正序』十巻、『文章英華』二十巻、『文選』三十巻を挙げるが、現在伝わるのは文集五巻と『文選』のみである。
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3李善の注について
『文選』が編纂されたのは、普通七年(五二六)をそう下らない頃と言われる。しかしその後しばらく、『文選』が文人達の話題に上ることはなかった。『文選』が注目を集めるのは、隋の蕭該という人物が『文選音』という書を著してからである。蕭該は梁の武帝の弟、
王恢の孫にあたる。つまり昭明太子からみれば、いとこの子ということになる。『文選音』は現存しないが、どうやらその内容は簡単な音注が付されただけのものであったらしい。しかしこの『文選音』の出現は、後の『文選』を研究したり、注釈を加えたりする学問、いわゆる文選学の濫觴として重要な意味を持っている。
ついで隋から唐に移るころ、江都の曹憲が『文選』を講じ、『文選』の学を盛んにした。その著『文選音義』も今は伝わらないが、やはり音注を中心にした注釈書であったと思われる。そして彼の門下からは、許淹、李善、公孫羅といった文選学者が輩出した。許淹と公孫羅の著は今に伝わらないが、李善の注は唐代に広く行われ、現在に至るも『文選』の最も基本的な注釈とされている。
李善の注の最大の特徴は、彼自身が「諸引の文証、皆先を挙げて以て後を明らかにし、以て作者必ず祖述する所有るを示すなり。」と言うように、言葉の出典や用例を指摘することにある。ただ、正文を直接釈義することが少なかったため、「事を釈して意を忘る。」(『新唐書』
伝)とも評された。確かに李善の注は、原典にさかのぼってその意味を正確に把握する必要があり、初学者などには難しいものであった。しかし、必ず根拠になる文献を挙げるという方法は、非常に客観的かつ確実な方法であり、典故表現を中心とする六朝文学が大半を占める『文選』所収の作品を解釈するには、極めて有用なものである。
李善の注が行われて『文選』はますます流行し、李善注以外にもいくつか『文選』の注釈が出現した。そのほとんどは現存しないが、唯一全体が伝わっているのが、五臣注である。五臣とは呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の五人である。五臣注は初学者にはわかりにくいという李善注の欠点を補うべく作られたが、粗雑な点も多く、しばしば批判の対象となっている。その結果として、逆に李善注の価値を高めている。
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